昭和52年01月27日 朝の御理解



 御理解 第33節
 「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」

 お道の信心は何処までも祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かると仰るのですから、話を聞いて心が開ける、話を聞いて自分のあり方が変わる。所謂改まった生活が出来る様になるからおかげになるのです。確かにお供え物とおかげは付き物ではありません。何処までも私は、教えを行ずるという事にある。其処から自分が改まった自分、生き方在り方、ものの見方全てが変わって来る。
 そこに人間の幸福があるのです。本当に情けないと思うておることが、見方を変えると有り難いなあとお礼を申し上げられる様な生き方が本当の生き方があるのですから、人間の結局幸せへの道を教えて頂く、幸せへのおかげを受けるのが金光教だ。だからお供えをどんどんしたからと言うておかげを頂くのではない。昨日も桜井先生が朝の御祈念後にお届けをされますのに、本当に最近合楽で心行という事が言われます。
 本当にやろうと思えば子供でも出来る様な事、それをおろそかにする。本当に実意の欠げた自分というものをいろんな時に発見する。だから発見したたんびんに、こんな事ではいけないなと言うて改まった生活に入って行くと、そこに生きた神様の働きを見る事が出来るというお届けでございました。昨日のお話ですから、一昨日でしょう。今あちらは渕上という寮を賄いを奥さんがなさっとられますから、先生はまあ、おっても良からなきゃどうでも良かわけ。
 まあ言うならいらんものごたるもんです。奥さんが一人でやって行きなさる。けど夫婦者じゃけん、別々に生活するわけに行かんから居んなさるだけの事。それで例えば家の修理とかいろんなこざこざの事やらは、もう一々大工の要る所は大工、左官が要る所は左官を雇うて先方の方え、渕上さんの方え言わば請求すれば良い様なもんだけれども、この頃はそれをね、自分で出来る所はさせて頂かねばという風に心を決められたわけです。これはなら誰も喜ばん。
 もし渕上さんがそれを聞きなさったなら、はあ大分あんな事でお金が少なくて済む様になったという風に分かんなさろうけれども、それをなら宣伝して言う訳ではない。只そうする事が本当だという事をするだけの事。こうする事が信心だと言う事を、しかもそれはなそうと思えば子供でもなせる事をなすだけの事だというのです。どうもこの頃はドア-が具合が悪くなって来た。
 色々工夫さして頂いた所が、こっちの方はもう腐った状態になっとるからドア-が閉まらない事が分かったから、それを取り外してその反対側にこうつけた。反対側の柱だったらまだ立派にしとる、そこで結構立派になった。所がそのこう蝶番の所のネジがない。そこで道具箱を探しておられたら、丁度其処に使わせて頂くだけのネジ釘があった。そこに信心の喜びがある。
 いやほんに神様ちゃほんと、こちらが成そうと思えば子供でも出来る様なことをなして行くとが、言わば心行に伴う言うなら今までおろそかにしておった、こげん所からおかげが洩れておったと気付かせて頂いて成させて貰うと、そこにもう生きた神様の働きが必ずあるんだという事、だからそこをさせて頂いたじゃなくて、其処に神様の働きがそういう例えば神様が準備用意をしておって下さる事を、もしおろそかにしておったら神様の準備もこちらがおろそかにすると言う事で受け止める事が出来ない。
 こりゃ誰かが修理するだろう、その為にちゃんとここに釘が置いてある。その言わば釘を生かす事にもなり、神様の働きをそこに見たり感じたりする事が出来る。雨漏りの所があった、それであっちこっち小屋を探したら適当なトタンやら適当な物があったから、上に持って行って嵌めたら、二つ継いだらきっちりそこえ嵌まるだけの物があった。本当に神様の働き、もうねその事をするという事よりも、そう何事にも信心にならせて貰う、なそうと思えば子供でもなせる様な事をなして行く。
 そこには神様の働きを伴うておると言う事。それがどう言う事になるかと言うと力になるのですね。行ずる事に確信が持てる様になる、確信と言う事はそのまま力であります。そこでね、お供え物とおかげは付き物ではないけれども、お供え物と力は付き物だと。おかげは付き物じゃないけれどね、お供え物と力は付き物です。昨日、日田の国師さんがお届けを毎朝なさいます。
 もう親先生、私は本当に神様にこれこれのお供えをと心に誓わせて頂いて、よう毎日これだけのお供えが出来ると思うて、それこそ感心しとります、と言うてお届けが有りました。これはどういう事を意味するでしょう。とても自分方の位な小さいお店ならお店でです、これだけのお供えが出来るとは思われなかったけれども、神様にお願いしてさせて頂く様になったら出来る様に成ったと言うのです。皆さんがね、力を頂きたいと思うならばそういう工夫が要るですよ。
 私共がもし力を頂いておるとするならばやっぱりそういう、もう大坪は今金を持たん事は神様も知ってござるから、もうこらえて頂こうという様な行き方で行っとったら、今日の合楽は生まれてないです。もうどんなにそれこそ食べるに食がない、着るに衣がないといった様なときであっても、それが事神様のことであったら記念祭又は大祭又は色んな神様ごと、御本部参拝そういう様な時には、必ず神様はおかげ下さったです。大祭にはお供えもさして貰わんならん、祭典費もお供えさして貰う。
 そこにです、もうそれこそギリギリの事ではありますけれども神様がおかげを下さる、其処に神様を信ずる力が生まれる。お供えとおかげは付き物じゃないから自分の都合の良かしこお供えしときゃ良か、そりゃそれで良いんです。けれども力が欲しいと思うなら、一遍そういう修行にも本気で取り組んで貰う事です。千円のお供えしか出来んと思うておったものがです、一万円のお供えが毎日出来る様になったら有り難いですよ。しかも力を受けるのですから。
 それこそ一万円がたの、おかげを頂くんですから。それはおかげをお供えをしたからがたの、おかげを頂くのじゃない、がたの力を頂くと言う事なんです。この神様はとにかく真心をもって打ち込むという、真心をもってそこにそうさせて貰わねばおれない、心の状態が生まれて来るときに、必ずそうさせて下さいます。だから神様を信ずる力も生まれて来るのですね。
 私共が日々おかげの体験、それは言うならば心行に伴う、子供でも成そうと思えば成せれる様な事をおろそかにしておった事に気付いて、そういう信心を、自分の周囲に幾らもおろそかな事が出来ておる事をです、行じて行く事は、おかげを言うならそういう些細な所からおかげが洩れておった、そのおかげを頂き止められる働きになって参りましょう。お供えでも去年と今年が同じこっちゃいかんです。
 この頃私は一寸何でんこう値段が上がったから、お賽銭のいっちょ値上げをせにゃいかんのちいうちから話した事でした。皆さんが例えばお賽銭の十円なら十円、百円なら百円お供えしとなさっとが、去年も一昨年も同じことちゅうなら物価はどんどん上昇しょっとじゃけん、その物価の上昇に伴うてお賽銭でもお初穂でも多ならにゃおかしいじゃないですか。お互いの給料も上がりよるもんね。それはね上げんならんじゃなくて、そう言う事に依って力を受けよと言う事なんですね。
 そして本気でその事をお願いをさせて頂く様になったら、それこそ日田の国師さんじゃないですけれども、ようこれだけの事が毎日お供えが出来ると自分で感心しとると言う事は、神様を讃えておる事なんです。確かにお供え物とおかげは付き物でない事が分かったけれども、ならお供え物と力は付き物である事を一つ体験させて貰うて、力を受けると言う事が私は信心だと思います。教祖様のお言葉にはなかなか意味が深い。
 初めからお供え物とおかげは付き物だという風には仰ってない。人間はやっぱだれでも欲を持っとるから、そんなら金光様ん信心はお供えせんでんおかげ頂くならばちゅうごたるのがやっぱりおるわけです。けども本当に信心が分かってきたら、それこそおかげを頂いたらどうかせずには居られないというのが神恩報謝の心を真で表すと言う事になるのです。その真を神様がお受けにならない筈が絶対ありませんよね。
   どうぞ。